未来の祀り・ふくしまゆるゆるフィールドワークノートその7 ふくしま四神探訪青竜②

「未来の祀り・ふくしま 2015」開催まで、あと1か月ほどになってきました。

「震災」「鎮魂」「芸能」「祀り」……これらのキーワードがどう結びついてくるのか?

イベント本番にむけた予習的フィールドワークにお付き合いください。(及川俊哉)

前回に引き続き、福島市東方(青竜方面)にむかいます。

国道115号を東へ東へと向かうと、霊山(りょうぜん)が見えてきます。

(岩がごつごつとそびえている様子がこの写真からわかるでしょうか……)

霊山は平安時代に慈覚大師円仁というお坊さんが開山した山だと伝えられています。

円仁は下野国に生まれ、比叡山で最澄に師事した天台宗のお坊さんです。

山形の山寺立石寺、宮城県松島瑞巌寺、岩手県平泉中尊寺、青森県恐山菩提寺など、

東北の古いお寺は円仁の開山によるという由来をもつところが多いです。

東北をまわったあと円仁は唐にわたり、五台山で仏教の学びを深めてきますが、

その様子は『入唐求法巡礼行記』という旅行記にまとめられています。

この旅行記はマルコ・ポーロの『東方見聞録』、玄奘三蔵の『大唐西域記』などとともに、

世界三大旅行記の一つとされています。

霊山は釈迦がインドで説法をした霊鷲山(りょうじゅせん)を名前の由来としており、

最盛期にはふもとに3600もの建物が建てられていたと言われています。

(案内板にある当時の様子を復元したイラスト)

現在は残っている建物はひとつもなく、けっこう厳しい山道が続きます。

(お寺が残っていれば、この道ももっと整備されていたのでは……

などと、汗を拭きつつ登ります……)

(下界を見下ろすと、復興応援のための高速道路、

東北中央道の工事が進んでいる様子が見えます。)

(険しい岩が立ち並んでいる様子に目を見張ってしまいます)

(汗だくになりながら山道を進んでいくと……)

(「護摩壇」に到着します)

手すりにつかまりながら岩場を進んでいくと、

「護摩壇」の跡に到着します。

ここは涼しい風が吹き抜けて、眺めも良く、

ちょっと休憩するのにちょうどよい場所です。

護摩壇は比叡山延暦寺の方角に向いていると言われています。

(「国司館跡」)

(「義良親王(のりよししんのう)」の字がほられた石碑)

さらに進むと「国司館跡」「義良親王」などと書かれた柱や石碑が見えてきます。

義良親王は「建武の新政」をおこなった後醍醐天皇の息子で、

陸奥太守に任命されて宮城県の多賀城に派遣されていました。

そのため、義良親王が住んでいた建物の跡地を「国司館跡」と言います。

なんで義良親王が福島県の霊山にきていたのか、ということは、

たいへん複雑なのですが、なるべく簡単にまとめてみたいと思います。

前々回に見学した阿津賀志山の戦いに勝利した源頼朝は、

1192年に鎌倉幕府を打ち立てますが、

モンゴル軍による「元寇(げんこう)」の影響などで、1333年に滅びてしまいます。(話が長くなるので途中途中に霊山の写真を挟みます。)

(金華山の碑。右上が「金」左上が「華」。

晴れた日には霊山から石巻沖の金華山が見えるといいます。)

歴史の教科書の年表などをみると、鎌倉時代の次に室町時代が始まる前に、

短い期間が空いています。

ここが、建武の新政の期間です。

鎌倉幕府が倒れた後、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)という人が、

平安時代のように天皇中心の世に戻そうとして、

政治の実権を武士から奪い返します。

しかし、そのすぐ後に、部下として使っていた足利尊氏が

別の皇族を天皇に立てて、裏切ります。

尊氏の立てた方の天皇の朝廷を「北朝(ほくちょう)」といい、

後醍醐天皇の側の朝廷を「南朝(なんちょう)」といいます。

このため、日本全国が北朝方と南朝方にわかれて、争うようになってしまいます。

これを「南北朝時代」といいます。

(ごつごつした岩肌を見せる「紫明峰」。

梁川や国見から見える霊山のガクッとした山容はここを見ている。)

1338年に尊氏が室町幕府を始めるので、

年表上は5年ほどしかないように見えるのですが、

南北朝の分裂はその後も続き、1392年におさまるまで、

ほぼ60年ほど継続します。

この期間は「一天両帝(いってんりょうてい)」の状態

(「一つの天下に二つの帝がいる状態」)とも呼ばれ、

日本中がモザイク状に分裂して争う内乱状態でした。

(さらに細い山道を進んで……)

(不思議なキノコやきれいな草花を眺めつつ……)

(さらにさらに細い山道を進んで……)

義良親王は北畠顕家(きたばたけあきいえ)らと多賀城に3年赴任していたのですが、

内乱状態が激しく、多賀城では防ぎきれないということになって、

一時期霊山に立てこもっていたのです。

義良親王は後に後醍醐天皇のあとを継いで即位し「後村上天皇」となりました。

余談になりますが、この後村上天皇の皇子に「長慶天皇(ちょうけいてんのう)」という人がいます。

この人は南北朝の動乱のごたごたで、資料が乏しい天皇ですが、

あの瀬戸内寂聴さんが住職を務めていた岩手県浄法寺町の天台寺で亡くなったとされ、

境内に御陵があります。美輪明宏さんが霊視して本物の御陵だといったということです。

(ただし、長慶天皇の墓と伝わる塚は日本全国にあるそうです。)

学問や研究としての歴史としては、資料のはっきりしないこの時代は、

あまり触れられることは少ないのかもしれませんが、

ゆるゆるフィールドワーカーとしては、かえって謎めいていて、

空想を広げながら史跡を巡るのが楽しみのポイントです。

(日枝神社奥の院に出ます。日枝神社があるのは比叡山と同じつくりになっています。)

また、福島には義良親王の部下として働いた北畠顕家等由来の史跡も多く、

(前回訪ねた文知摺観音の「甲剛碑」もそのひとつ)

南北朝時代の霊山が歴史的な舞台だったことを頭に入れておくと、

それらを鑑賞する際もいっそう理解が深まります。

また、浜通りに伝わる「宝財踊り(ほうさいおどり)」は霊山陥落の際、

北畠顕家の家臣が変装して逃げた様子を伝えるものだそうです。

(……さらに進んでいくと……)

(霊山寺跡につきます)

霊山にあった寺はこの南北朝の争いの際に焼亡してしまったとされています。

霊山を守備するに当たっては、伊達郡を領地としていた伊達氏の力が大きく影響していました。

当時の伊達家当主は7代目の伊達行朝(ゆきとも)です。

この人は霊山を守り抜こうとして死んでいった勤王の武士ということになっていましたが、(大槻文彦『伊達行朝勤王事歴』参考)

最近の研究では、この人の代の時期に伊達家が北朝方についたのではないかとも言われています(『梁川城記 上』2015年 シーアイエー株式売社発行)。

そうすると伊達行朝の政治的判断の結果霊山城が陥落したことになり、

なかなかこの辺りの歴史ドラマも興味深いものになっています。

(霊山寺跡はけっこうな広さがあります)

いまでは跡形もない霊山寺ですが、

2009年には千葉県善雄寺で霊山寺の御本尊であった阿弥陀如来の頭部が発見された、

というニュースがありました。

どういうわけでこの霊山から千葉県まで仏像が移動したのかわかりませんが、

燃えてしまったはずの霊山寺の遺物が現存するというのは、胸が高鳴ります。

福島は京都や奈良のように観光名所になるようなものは残っていないのですが、

けして歴史の無い土地ではありません。

どの地域にも平等に、千年なら千年なりの時間は流れているわけです。

ちょっと知識を仕入れて、見方を変えてみると、

石碑や岩の痕から、そうした歴史的ロマンのイメージがわいてきます。

また、福島が戦災の多い土地で、富や文化が蓄積しにくかったということも見えてきます。

(伊達氏も豊臣秀吉の奥州仕置によって、伊達郡を出て仙台に居城を移すことになります)

これからの福島は、文化を遺し、文化を発信していく土地にしていきたいですね。

次回は福島市南部(朱雀方面)をゆるゆるとフィールドワークしてみたいと思います。

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