未来の祀り・ふくしまゆるゆるフィールドワークノートその8 ふくしま四神探訪 朱雀

「未来の祀り・ふくしま 2015」開催まで、あと2週間ほどになってきました。

「震災」「鎮魂」「芸能」「祀り」……これらのキーワードがどう結びついてくるのか?

イベント本番にむけた予習的フィールドワークにお付き合いください。(及川俊哉)

今回は福島市の南側に行ってみたいと思います。

まず、稲荷神社の真南にある、弁天山に登ってみましょう。

(弁天山から信夫山方面が見渡せます。)

弁天山には昔「椿館」という山城があったとされ、

安寿と厨子王の伝説の残る地の一つになっています。

(北畠顕国の碑)

北畠顕国という人が南北朝時代に椿館にいたという言い伝えが石碑になっています。

南北朝時代は霊山を中心とした山城の布陣が福島市を覆っていました。

当時を想像してみると、また街のイメージが変わりますね。

(蚕祖神社の石柱)

福島は養蚕が盛んだったので、あちこちに養蚕に関わる神社があります。

蚕の生産が盛んだったころは、福島市平和通りから川俣方面まで、

線路が引かれ運搬の列車が走っていたとか。

産業の変化が町の変化に密接につながりあっていることがわかります。

(栗がきれいでした)

(弁天山から的場石(まといし)にむかってみたいと思います)

(昔は弁天山から浜通りまでの古道があったようです。塩の道でしょうか。)

(山道を進んでいくと……)

(的場石があらわれます)

(なぜか信楽焼のタヌキが……タヌキにばかされた伝説などがあるのでしょうか?)

(こころなしか、霊山や万歳楽山の岩質に似ているような気がします……)

この的場石は、あの那須与一が信夫山から矢を射てあてたという伝説が残っています。

椿館の侍も弓矢の的にして稽古したそうです。

信夫山からここまでは、ちょっと矢が届く距離ではないと思いますし、

那須与一が福島に来ていたかどうかもちょっとわかりません。

なんとなく、もともとあった弓矢に関わる伝説が、

変形して残ったもののような気がします……。

次は弁天山を下りて、五輪石稲荷神社に行ってみましょう。

(岩が複雑につみあがった五輪石稲荷神社)

(藤づるとのとりあわせがまた前衛彫刻のようで驚かされます)

自然の作った造形美に圧倒されます。

古代の人がこれをみて神聖さを感じて思わず拝む気になったのも、

よくわかるような気がします。

さて、次は阿武隈川をこえて、鳥谷野街道の船着場跡に行ってみましょう。

(平安時代の船着き場の名残り。伊達政宗の父、輝宗がよく利用したと書いてあります)

(船場跡の石碑)

(阿武隈川に橋のないころは舟が重要な交通の手段だったのでしょう。)

さて、福島市稲荷神社から地図上を真南に線を引くと、黒岩虚空蔵尊にぶつかります。

そして、この直線にぴったり重なる道が、国道4号線と鳥谷野街道との間に隠れています。

(ずっと、まっすぐ。)

おそらくもともと水田だった場所が、宅地化していったために、

あぜ道が舗装されてできたのだと思いますが、

それにしても直線なので、昔の人の測量技術に驚かされます。

(この道沿いにも小さな神社があります。)

(二ッ石というのも気になりますね。)

(古墳のフタ(!)だったものらしいです。)

(こういう小さい石碑もかわいらしいですね)

この直線道路をずっとすすんでいくと、ダイソーやミドリ書房のわきの道を通り、

スーパーいちいの敷地に入ります。

いちいの裏手もかなりおもしろいスポットが多いので、

ちょっと寄り道してみましょう。

(いちいの裏手の地蔵堂)

(坂上田村麻呂の家臣の念持仏をおさめてあるそうです)

「大同二年」という年号は、東北のあまりにも多くの寺社の創建年号になっているので、

民俗学などでよく問題として取り上げられる年号です。

さらにこの辺りをうろうろすると……

(八郎内の七塚のうちのひとつ)

未発掘の古墳や……

(「合図に用いたカンカン石」というのはどれなのでしょうね?

古墳時代の道具の使用法がまだ伝わっているというのは珍しい気がしますが……

どうなのでしょう?)

(房の内古墳)

神社になっている古墳などがあります。

古墳時代からこの地域には人が住んでいたんですね。

カンカン石を叩いて、集会などをやっていたのでしょうか?

実際に歴史的遺物を目の当たりにすると、

当時の様子が彷彿とされます。

さて、もと来た道に戻り、スーパーいちいを過ぎていくと、

鉄塔が見えてきます。

(未舗装のあぜ道があらわれる)

鉄塔の足元に、未舗装のあぜ道があらわれます。

これ!

これがもともとのこの道の姿を遺しているのではないでしょうか!

このまっすぐ道の正体を見たような気がして、

思わず興奮してしまいます。

さらに進むと……

黒岩春日神社があらわれます。

(石碑の数々。「湯殿山」が達筆ですね。)

(階段を上っていくと……)

(明るい境内があらわれます)

(この岩もかなり大きいです。)

境内をあとにして、さらに坂道を登っていくと……

(黒岩虚空蔵尊につきます)

(いいお顔の虎)

(虚空蔵尊は丑年寅年のひとの守護仏なので、牛と虎の置物があります。)

(阿武隈川が見下ろせて眺めがいいです。)

(「算額」がかかけられています。)

和算といって、高等数学の問題を解く技術が日本にはあったのですが、

問題が解けると、神仏に奉納する習慣があったのです。

(いまからするとかなり不思議な感覚のような気がしますが……)

こういう数学技術のたかさが、

測量などにも応用されていたのではないでしょうか?

最後に、足をのばして、福島医大の東方にある、蓬莱岩に行ってみましょう。

(緑のしたたるなかの蓬莱岩)

仙人が鶴亀と遊んでいるのが見えそうな、

仙境のような形をしています。

秋には紅葉も見事です。

蓬莱岩のそばには、村上薬師堂が立っています。

(村上薬師堂)

(村上薬師堂の由来)

やはりまた南北朝時代の史跡のようです。

「静尊法親王(じょうそんほっしんのう)」は後醍醐天皇の皇子のようですが、

文献上は生没年不明ということです。

どこまでが史実かはわかりませんが、

静尊法親王がここまできて霊山に到着せず亡くなっているというのは、

ドラマを感じさせます。

お能の脚本になりそうな物語と、風景だなあ、などと、想像を膨らませました。

福島市の史跡を巡る際は、南北朝時代の歴史を頭に入れておくと、

より楽しめるかもしれませんね。

次回は、最終回、福島市西側、白虎方面を回ります!

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