未来の祀り・ふくしま ゆるゆるフィールドワークノート その5 ふくしま四神探訪 玄武(北方面)

 

「未来の祀り・ふくしま 2015」開催まで、あと2か月ほどになってきました。

「震災」「鎮魂」「芸能」「祀り」……これらのキーワードがどう結びついてくるのか?

イベント本番にむけた予習的フィールドワークにお付き合いください。(及川俊哉)

 

 

 

さて、今回からは福島市中心街を飛び出して、福島市を取り囲む四方のスポットを、

ゆるゆると探索してみたいと思います。

 

ちなみに「玄武」というのは、亀に蛇がからまったすがたをした神様ですが、

古代の中国人が北の方面の夜空を見て、

中国的に星座を組み立てたときの図像だということです。

「玄」は「黒色」を指すので、北を表す色は「黒」。季節は「冬」を表します。

 

まずは、北方面、国見~伊達エリアに足を運んでみましょう。

地図的に見ると、稲荷神社の真北の方角に、

「萬歳楽山(まんざいらくさん)」というおめでたい名前の山があります。

20150705_112851(萬歳楽山山頂)

標高はそれほど高くありませんが、奇岩が多く、地元の信仰を集めています。

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地震の際には「マンゼロク、マンゼロク、マンゼロク…」と唱えると、いいそうです。

萬歳楽山は山道のわかりづらいところがあるので、

道順を知っている人につれていってもらう方が無難です。

 

萬歳楽山を下りて、国見ICの前の道を西に向かうと、宮城県側に萬蔵稲荷があります。

萬蔵稲荷は商売繁盛のお稲荷さんとして福島市でも訪れる人が多い神社です。

 

萬蔵稲荷はもともとは「賀良明貴(がらみき)稲荷」という名前でした。

「ガラミキ」とはどういう意味なのでしょうか?

 

いろいろ調べた結果、柳田國男の『地名の研究』という本に、

「ドウメキ、ザワメキ、ガラメキなどはもと水の音を形容した地名であるが、瀬の早い川の岸にある部落または田畑で百目木、沢目鬼などという例はいくらもある。」

という記述を見つけました。

萬蔵稲荷ももともと沢水の流れのある場所だったのではないでしょうか。

 

さて、萬蔵稲荷からもと来た道をたどり、福島県側に戻りましょう。

 

途中「深山神社」があり、大きな藤の木があるので、

時期には藤の花が盛んに咲いていてきれいです。

 

伊達市大枝小学校方面に向かっていくと、

国指定の史跡、阿津賀志山防塁(あつかしやまぼうるい)があります。

image1 (1)

 

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(画面奥一つ手前にこんもり見える小山が「厚樫山(あつかしやま)」)

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阿津賀志山防塁とは、平安時代末期、奥州藤原氏が鎌倉勢を迎え撃つためにもうけた、

合戦用の堤防です。

 

厚樫山から阿武隈川までのかなりの距離が三重堤防で封鎖されていました。

堀の部分には水も入っていたようです。

当時としてはかなり巨大な土木施設だったと思います。

 

歌舞伎「勧進帳」や黒沢明の映画「虎の尾を踏む男達」などで有名な、

源義経の逃避行ですが、

目的は岩手県平泉を拠点としていた奥州藤原氏を頼っていくことでした。

世界遺産になった岩手県平泉中尊寺は奥州藤原氏の菩提寺です。

 

藤原氏は結局頼朝の圧力に屈して義経を殺してしまいますが、

それでも頼朝は藤原氏をゆるさず、平泉を滅ぼすために東北に軍勢を送ります。

 

鎌倉幕府を開いた際に頼朝は征夷大将軍(せいいだいしょうぐん)となりますが、

「征夷」とは、「東北の野蛮人をやっつけた」という意味です。

奥州藤原氏は「俘囚の王」を名乗っていました。

「俘囚(ふしゅう)」とは、当時「蝦夷(エゾ・エミシ)」を示す別の言い方でした。

奥州藤原氏は「蝦夷」という、大和民族とは違う民族だという自覚を持っていたことになります。

 

福島にいると、鎌倉や岩手県のことは遠い地域のことのように思いますが、

戦略上福島市は東北の入口として、合戦などの際は大規模な衝突の起きやすい土地だったと言えます。

 

阿津賀志山の戦い(1189年)のすぐあとに、

「いい国つくろう鎌倉幕府」(1192年)となるわけです。

 

明治維新の際の会津もそうですが、

福島は時代の変わり目に戦火をこうむることが多い土地だったといえるでしょう。

 

阿津賀志山の戦いの縁から、中尊寺の古代蓮が寄贈され、

阿津賀志山防塁そばではたくさんの蓮の花が咲き乱れています。

 

次は阿武隈川を渡って、梁川地域に入りましょう。

 

梁川町の近郊に、梁川八幡神社があります。

伊達政宗で有名な伊達氏は、仙台に居城を移すまでは、

この梁川町を拠点としていました。

政宗もこの神社を参拝しています。

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今年(2015年)は福島デスティネーションキャンペーンにあわせて、

特別に神像が御開扉されていますので、一見の価値があります。

梁川八幡神社の裏手にもたくさんの蓮の花が咲いています。

 

伊達氏はもともと茨城県に勢力をもつ一族でしたが、

阿津賀志山の戦いの前哨戦である石那坂の戦いで、

藤原氏方の武将信夫佐藤庄司を打ち破る戦功をあげ、

梁川を中心とする「伊達」地域を領有します。

そのため、「伊達」氏を名乗るようになるわけです。

 

敗れた佐藤氏は飯坂大鳥城に拠点があり、

二人の息子は「佐藤兄弟」と言って源義経の忠臣でした。

飯坂線沿線の医王寺が菩提寺になっています。

梁川八幡神社ももともとは佐藤庄司の創建ということです。

 

「伊達」は現在では「ダテ」と読むことになっていますが、

もともとは漢字の読み通り「イダテ」と読んでいたようです。

政宗が遣欧使節団に持たせたローマ法王宛の手紙にも、

「Idate Masamune」という署名がしてあるということです。

 

そうなると、次に「いだて」という地名の由来が気になる所です。

和歌山県和歌山市に「伊達神社(いだてじんじゃ)」があります。

祭神を「五十猛命 (いたけるのみこと)」といい、

紀の国和歌山らしく、樹木の神様です。

 

和歌山県と福島県では遠いように思いますが、

例の阿津賀志山の戦いでの藤原氏方の将には

金剛別当秀綱が就いています。

この人は宮城県名取市の熊野神社の別当です。

熊野信仰は喜多方の長床で有名な新宮熊野神社など、福島にも根付いており、

熊野信仰のルートで「イダテ神社」が伊達地域に分祀されていても、

それほどおかしくはないと思います。

(宮城県色麻町には坂上田村麻呂が勧請した伊達神社がある)

 

そうすると、伊達地域には

ほんらいは「イダテ神社」があったのかもしれません。

神社はけっこう頻繁に祭神や名称を変えてしまうのですが、

たんねんにこの地区の寺社を巡って歩けば、

この神社が元はそうだったというような、なにか情報が得られるかもしれません。

 

こうして、探偵気分で謎を追いながら神社をめぐるのが、

ゆるゆるフィールドワークの醍醐味ですね。

 

次回は青竜(東方面)を探訪してみたいと思います。

 

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